肥後象嵌と光助の歴史

400年の歴史を持つ熊本の伝統工芸 肥後象嵌

当店大住家は坪井諸工の流を組み、先祖代々、西垣家や神吉家の地造を専門とした鍛冶屋として刀の鍔などを納めており、幕末には大住直太朗が新細工町で営んでおりました。屋号である『光助』は、明治7年(1874年)に初代大住伊吉が熊本市新町3丁目において肥後象嵌氏師として創業。以来、2代目大住正、3代目大住正敏、そして4代目大住裕司と代々今に受け継がれ、肥後の匠『光助』として現在に至っています。

当店では、肥後象嵌の伝統工芸品としての技法を継承しながらも、さらに付加価値を加えた現代人の感性に訴える作品創りを目指し、肥後象嵌の新分野への展開を図っています。

 

熊本の伝統工芸 肥後象嵌

肥後象嵌とは、主要素材である鉄に純金や純銀を打ち込む、江戸時代初期に生み出された肥後独特の象嵌技法で、江戸時代には、刀の鍔や小柄などに象嵌が施されそれを身に帯びることは当時の武士のダンディズムの象徴であったといいます。

肥後象嵌の創始は、寛永(1632年)に肥後藩主として入国した細川忠利に、鉄砲鍛冶として召しかえられた林又七が、鉄砲や刀の鍔などに象嵌を施したところから始まったといわれていますが、林家の他にも、このころから始めた平田家、西垣家、志水家の四大主流により、象嵌の技法が代々継承されてきました。

また、この他にも林家の流れをくむ神吉家、谷家、遠山家、三角家、諏訪家など細川三斎公時代の金工や坪井諸工と呼ばれる肥後金工の職人集団などに加え、三斎公自らの作や寛永17年(1640年)細川忠利の召しに応じて肥後(熊本)に入った剣聖宮本武蔵の鍔や小道具等の慰作があります。

現代では、郷土の美術工芸品として親しまれていますが、今また、ファッションやインテリアなどの新しい分野にZOGANとして進出しています。

歴代光助による
作例

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